「あら、精市、もう行くの?」 もう既に履き潰したローファーを履いて家を出ようとした時、卒業生は確か9時に学校に集合だったわよね、と母親に問われる。 時刻はまだ7時半にもなっていなかった。 とは言っても、いつもより早く目が覚め、ゆっくり朝食を食べて着替えてもこんな時間になってしまったのだ。 もう一度ベッドに戻るなんて出来ないし、外を見れば快晴で、家にいるのが少し勿体ない様な気がした。 だから、今まで通ってきた道を、ゆっくり歩いて学校へ向かおうと思ったんだ。 「うん、行ってきます。」 暦の上では三月と言えど、気温はまだ春と呼ぶには遠かった。 唯一救いだったのは天気が快晴だったこと。空は青くて、白い雲がところどころに浮かんでいた。 もう天気に一喜一憂するような年齢でもないが、卒業式くらいは晴れていて欲しいものだ。 あまり特別な日という実感もなくて、普通に学校に登校する感覚だったけれど、高校最後の日の天気が晴れだとやっぱり少し嬉しい。 立海の校門に続く、桜の木のトンネルの前に差し掛かったところで、ここに入学した時の事を思い出した。 自分は中学から立海生だからそれはもう6年も前のことになるけれど、なぜかはっきりと映像が浮かんでくる。 真新しい制服に、まだ結び方もよく分からずに入学式の朝に母親に手伝って貰ったネクタイ。 学校に入る前にくぐる桜のトンネルのピンクがいつもよりも色鮮やかに見えて、期待で胸が一杯だった。 たった今その桜のトンネルは薄いピンクの蕾を付け始めている。 もう1か月もすればその蕾は膨らんで花を咲かせ、新入生たちを迎えることだろう。 丁度6年前に俺を迎えてくれた時のように。 「あれ!幸村ー!!」 声のした方を振り向けば、後ろには大きく手を振る姿。 例え小さくしか見えなくても、それが誰だかはっきりと分かった。 だって、それは3年間テニス部で苦楽を共にした元マネージャーで、今はクラスメイトでもあるのだったのだから。 俺も小さく手を振り返すと、嬉しそうにスカートを翻しながらこちらへと駆けて来る。 2月に入った頃から自由登校期間が始まって、しばらく会っていなかったからこうやって並んで話すのは久しぶりの事だ。 「久しぶり。卒業生の集合は9時なのに早いんだね!」 「お互い様、だろ。」 まだ花の咲かない桜の下を二人で並んで学校へと向かう。 俺よりも頭一つ分小さいは、小さいその体のどこにパワーがあるのかと思わせるくらいいつも元気で、どのマネージャーよりも働き者だった。 その分部員からの信頼は厚くて、後輩からも慕われていた。 引退の時だって、俺らと同じくらいみんなから惜しまれながら引退していたのを覚えている。 「そういえばさ、幸村は進路どうなったの?」 「俺?俺はそのまま立海大に進むことにしたよ。テニスする環境も良いしね。」 大学に行ってもテニスを続けたいと思っていた俺にとって、立海大の環境は申し分なかった。 中学高校での実績を配慮して、大学にある最新の設備を使わせて貰えると聞いた。 正直内部進学をすれば楽だったというのもあるし、受験勉強の煩わしさもなくただテニスに集中できると思ったから。 「そっか…。私はね、東京の大学に行くことにしたの。」 「東京ってことはここから通うのかい?」 「ううん…通うと2時間くらいかかっちゃうから、東京で働いてるお姉ちゃんと二人暮らし。」 だから今引っ越しの準備で大変!と少しおどけて見せた表情の中に少し寂しさが混ざっているのを俺は見逃さなかった。 俺は大学でも今まで通り実家から通うから生活に大した変化はないかも知れないけれど、引っ越すというのなら生活は大きく変わるだろう。 いくら東京が隣と言えど、住む場所が変われば慣れるまで大変に違いない。 と同時に、それは卒業後は気軽に会えなくなるという事を意味した。 違う大学に行けば必然的に会うことは難しくなるけれど、もう実家に住まないという事はもっと会えなくなる。 「ねえ幸村、まだ時間あるしテニスコートに行かない?」 その事をまだうまく飲み込めずにいた時に、そう提案される。 特に反対する理由もなかったし、まだ時間はたっぷりあったので、一緒にテニスコートへと向かうことにした。 もう二度と一緒に歩くことはないでろう、もう何回も通った道を一緒に並んで歩いた。 今日は卒業式という事でどの部活も朝練が禁止されていたので、テニスコートは驚く程静かだった。 その緑は朝日を浴びてきらきらと輝いているようで、今までテニスコートがこんなに綺麗に見えたことはなかった。 二人でコートの端に立つと、それはとても神聖なものに見えて、入るのが少しためらわれた。 それもも同じだったようで、立ったまま動こうとしない。 「綺麗…。」 おもむろにが呟いた言葉が、全てを表しているようだった。 このテニスコートは、今までここを使ったテニス部員たち全員のいろんな思いを含んで、 それでもなお厳かに佇んでいるように見えた。 「幸村、あのね、知ってる?」 小さい子供が父親や母親に「ねえねえ、聞いて」というような語り口で、は話を始めた。 「いつもそうだったけど、特に晴れた日…今日みたいに晴れた日にはね、みんなの汗が光って見えたの。その中で、幸村のエメラルド色のヘアバンドが輝いてて、それを見るのが好きだった…。」 途中からその声が涙ぐんだものに変わる。 きっと今彼女の眼には練習に励む部員たちの姿が映っていることなんだろう。 そしてその中に、俺の姿も確かにある。 「大人になったらさ、楽しかった事も、苦しかった事も、全部忘れちゃうのかな?こんなにテニス部が大好きだったことも、テニスをしているみんなが輝いていた事も…!」 言い終わるとはぼろぼろと涙を流し始めていた。 いや、涙を流し始めていたと思う、と表現する方が正しいと思う。 だって彼女の横に立っていた俺に、俯いた顔のその表情は見えなかったから。 それでも確かに嗚咽は聞こえてきたし、肩が震えているのは見逃さなかった。 その小さな肩を右手で抱いて、俺の方に引き寄せてこう言った。 「大丈夫。忘れないよ。ここに来ればいつでも思い出せる。だから、顔を上げて。忘れてしまいそうで怖いなら、しっかりと目に焼き付けて。」 俺の言葉には顔を上げた。 きっとその目は真っ赤で涙でぼろぼろになっているのだろう。 それでも俺の言った通りに顔を上げて、しっかりとテニスコートを見据える彼女は、きっと強さというものを持っている。 そんなの事を思うと少し胸がきゅっとなった。 一生懸命さと、強さとを持ち合わせた彼女は、ずっと俺たちの事を支えてくれていた。 3年生になって同じクラスになり、部活を引退してからもほぼ毎日顔を合わせていた俺たち。 それが明日からぱたりとなくなってしまうのだ。 悔しいときには一緒に悔しがってくれて、嬉しい時には一緒に笑ってくれた。 弱音を吐けば一喝して奮い立たせてくれたし、困った時は相談に乗ってくれた。 自分でも知らない間に、彼女の存在は大きなものになっていた。 それは自由登校期間中に全く顔を合わせない事で気付かされたんだ。 「ねえ、俺もさ、忘れたくないよ。この気持ちを、過去のものにしたくないんだ。東京なんてすぐに行ける。だからさ、これからも俺と一緒にいて欲しい。…好きだ。」 その気持ちを自分の中に秘めておくなんて不可能だった。 が思い出を忘れてしまうのを怖がっているように、俺だって今のこの好きだという気持ちが過去のものになるのを恐れている。 君をこんなにも好きな気持ちを忘れてしまうなんてしたくないんだ。 「幸村…。私も幸村と一緒にいたいよ。大学が違ったって、住むところが離れてたって。」 はっきりとした声でそう答えを貰って、嬉しくて涙腺が緩みそうになる。 けれどその後すぐに俺に向けられた眩しい笑顔に、俺もつられて笑顔になった。 大学は違っても、東京と神奈川の距離があっても、俺たちはこれからもずっと一緒にいる。 だからもう泣く必要なんてないんだ。 卒業式の後にはテニス部の後輩たちが送別会をやってくれることになっている。 そうだ、その後はレギュラーメンバーみんなでご飯を食べに行こう。 そこで思い出話に花を咲かせて、それから今度いつ会うか決めるんだ。 みんなでまた後輩たちの部活を見に来るのも良い。成人してからは飲みに行くのだっていい。 そこでまた思い出話に花を咲かせれば、絶対に忘れることなんてない。 それにまたここに来れば、あの時の光景ははっきりと思い出されるだろうから。 「そろそろ時間だ…行こう、みんなが待ってる。」 そう言って俺は彼女の手を取って、優しくぎゅっと握る。 そして二人でみんながいる教室へ、青空をバックに歩みを進めた。 企画サイト Luv Fes 様へ提出 Special Thanks to エメラルドライン by 幸村精市 2012.3.6 |