「疲れた」その三文字しか頭の中にないほど、私は疲れ切っていた。「眠い」って言葉もあるかも知れないけど。 とにかく、今日は金曜日。明日と明後日は休みだから会社に行かなくて済む。 他にも掃除とか洗濯とかやらなきゃいけないことだってあるけど、仕事の事を忘れられるならそれで良い。 正直、社会人になる事がこんなに大変だなんて思っていなかった。学生の時とはまるっきり違う、責任だって持たないといけない。 今週だって何度上司に怒られたことか。今日だってそうだ。もう怒られてしまった事は仕方ないから切り替えたいのに、まだ引きずっている自分がいる。 とりあえず今週末は仕事の事はすっかり忘れてしまいたいような気分なのだ。 仕事が終わったので(時計を見ればもう八時前だった)さっさと帰る準備をして、真っ直ぐに家へと向かった。 昼ご飯を食べるのが少し遅めであまりお腹も空いていなかったし晩御飯を作る気も起きなかったので、家に帰ったら直ぐにお風呂に入ってベッドに潜り込もうと思っていた。 けれど家に帰ってドアを開ければ明かりが点いていて、今朝消したはずなのに、と不審に思ったけれど玄関に置いてあった靴でそれがなぜだか分かった。 私が大学卒業の時に寮を出て一人暮らしを始めた時に、何かあった時にと蔵ノ介に合鍵を渡しておいたからだ。 もう、来るならメールなり留守電いれるなりしてくれれば良かったのに。 「おかえり、遅かったんやな。ちゃんと気ぃ付けて帰ってきたか?」 予想通りキッチンから顔を出したのは蔵ノ介だった。 彼とは大学の先輩後輩で、付き合ってからもう一年以上になる。 初めて出会ったのは私が三年生で彼が一年生の時だったから、もう二年程前の事だ。 私も彼も大学で上京してきた身である。彼の関西訛りは大阪出身だから、だそう。 私は割と関東近郊の出身だから普通に標準語に近い言葉でしゃべるのだけれど。 「…なんか疲れてるんちゃう?」 彼の言葉に完全に図星を付かれ、不覚にも今日上司に怒られた事を思い出してしまう。 もう今更どうにでもなる事でもないのに、思い出してはへこんでの繰り返し。 気持ちのやり場に困って、つい彼にしがみついてしまった。 そんな私に彼は何も言わずにただ頭を撫でてくれる。 蔵ノ介に「疲れてるんじゃないか」と言われたという事は、思いっきり顔に出てしまっていたという事だろう。 たった二つとは言え、私の方が年上なのだから彼に心配を掛けたくないと言うか、むしろ助けてあげられる立場でいたいと思っている。 それなのに心配をされるなんて、不覚である。まあ今日はいると思っていなかったから気を抜いていたというのが本当のところだけど。 「…もう今日は晩御飯食べないで寝ようと思ってた。」 私が少しふて腐れながらそう言うと、蔵ノ介は少し怒っているような、それでも優しく宥めるようにこう言った。 「ちゃんと三食食べへんと体に悪いで?晩御飯作っといたから、一緒に食べよう、な?」 これではまるで幼稚園の先生にあやされている園児みたいだ。 もう、ほんとに、彼にはしっかりとしたところを見せたいのに。 それでも私がお風呂に入っている間にきっちりと晩御飯は用意されていたし、少しだけどお酒も買ってきてくれたみたいだ。 眠い目を擦りながらも彼の作ってくれた晩御飯を食べると、やっぱりおいしかった。 今日は春野菜の炒め物をメインにしたらしい。なんでも、私が忙しいからと偏った食生活をしていないか心配してくれていたようで。 あまりお腹が空いていないと思っていたけれど、あっさりとした味付けのそれはすんなりと食べる事が出来た。 「そんで、なんか会社であったん?」 「ああ、今週はなんかいっぱい怒られちゃってね…。新入社員だから役に立たないとか思われてそうで…。実際迷惑もいっぱいかけちゃったし…。」 自分の言葉が段々と尻すぼみになっていく。 そりゃあ入社して間もないのは事実だけど、責任はみんな一緒だし、与えられた仕事はきちんとこなすべきだと思う。 それなのに、本当に役に立たないなあ、私。本当、ため息が出るよ。 「だからね、今週末は何もしないで、仕事の事は忘れてリフレッシュしたいなあって。」 「…そっか。なるほど。うん、ええと思う。ストレスは溜めこみすぎて爆発する前にちょっとずつ解消した方がええ。」 でもちょっと残念やなあ、と使い終わった食器を持って立ち上がりながら蔵ノ介は言った。 何が残念なのか、と思った矢先、彼はお皿を持ったまま屈み込んで耳元でこう囁いた。 「ちょっと久しぶりに『ええこと』したいなあって思ってたんやけど。」 なんてな!と笑い飛ばしながら彼は台所へと向かっていってしまう。 もう顔がりんごのように真っ赤になってしまって、夜遅い時間にも関わらず、思わず「疲れてる社会人をからかうんじゃない!」と叫んでしまう。 確かに、お互い忙しくてご無沙汰ではあるけど…そんなことしたらさらに疲れてしまう、って何考えてるんだ私! 「くっ、蔵ノ介!私は今日は普通に寝るからね!」 「はいはい、何もせえへんから安心しておやすみ。」 ふざけたような言い方だったけど、ちゃんと彼が何もしないという事を私は知っている。 人が本当に疲れている時に無理矢理させるような人でもないのだから。 彼が洗い物をしている間に歯磨きを済ませて、恥ずかしさと一緒にベッドに潜り込むと、台所から戻ってきた蔵ノ介が大きな左手で私の額を撫でてくれた。 「…疲れが取れたら俺の相手もしてくれると嬉しいな。じゃあ、安心してお休み。」 ベッドに潜った途端に睡魔が襲ってきたのではっきりとは覚えていないが、彼はこの後私の額にキスをしてくれたように思う。 明日と明後日はお休み。ゆっくり寝たいけれど、彼とも一緒に過ごしたい。 でもそうすれば、月曜日からまた頑張れるような気がするから。 2012.4.9 |