部活を終えて家に帰ってドアを開けようとしたところで、 「今日は仕事で遅くなるからお隣さんで晩御飯食べさせて貰ってね」 という母親からのメールを思い出し踵を返す。 歩いて約30歩、所要時間約1分の隣の家のベルを鳴らせば、出てきたのは小さいころから知っているおばさん。 「いらっしゃい雅治くん。久しぶりね。」なんて言いながら中へと通してくれた。 この家も大分前から知っているせいか、もう自分の家のように間取りが分かる。 第二の家という感じですらする。


「晩御飯までまだ少し時間あるから、と話でもしてやって。あの子自分の部屋にいるから。」


おばさんに促されて玄関のところにテニスバッグを置かせて貰うと、 慣れた足取りで階段を上った。 コンコン、とドアをノックすると「はーい」といういつもの声。 ガチャリと躊躇いなくドアを開けると、が地べたに座り、ベッドに寄りかかって雑誌を読んでいた。 制服から着替えてラフなパーカーにジーンズという格好でくつろぐ。 ついこの間来たばかりだが、部屋は相変わらず整理整頓されていて、 ベッドの上にはの趣味であるぬいぐるみがいくつも飾られていた。



「あ、雅治、いらっしゃい。」

「…疲れた。膝枕。」



部屋に入って早々だが、俺のわがままを「仕方ないな」とポンポンと膝を叩いて受け入れてくれた。 自分の頭をの膝に乗せると、全身から力が抜けて行ったのが分かる。 ふう、と大きく息をついて目を瞑った。 そんな中は慣れたように、俺の事を気にせずに雑誌を読み続ける。 まあ、疲れたときに膝枕をして貰うのはよくある事だから。



「それにしても雅治、今日はいつにも増して疲れてない?」

「部活中ずっと柳生と入れ代わっとったんじゃ…。入れ替わりは結構疲れるもんじゃき。」

「あはは、『コート上の詐欺師』の名が泣くよ?」



雑誌に目をやったまま、可笑しそうに笑う。 確かに俺は「詐欺師」と呼ばれているがそれは悪魔でもコート上の話である。 自分でないものに成り済ますのは、テニスのプレイ内での作戦とは言え正直疲れる。 相手を完全にコピーし、仕草、話し方、声、すべてを真似て自分自身を殺さないといけないのだから。



「雅治はさ、将来俳優にでもなれるんじゃない?あんなに完璧に柳生くんになれるんだから。」

「…だから、疲れるって言うとるじゃろ。」



それもそうだったね、とまた可笑しそうには笑った。 さっき自分自身でないものになるのは疲れる、と言ったが、 逆にいつも自分らしくいるかと言われればそうではなかった。 素、というものを他人に見せるのが極端に苦手だからだ。

けれどこの空間で、の前にいる自分はきっと「素」なのだろうというのを 心のどこかで確信していた。

自分自身をさらけ出すのが苦手で、さらに詐欺師と呼ばれ、一人歩きする噂も少なくはなかった。 ある時は女子大生と一夜を共にしたと言い、ある時はOLに貢がせているという。 俺に関する噂はざっくりと言えばそういう、あまり聞こえの良いものではない。



「…それに今日はギャラリーがやたらうるさかったんじゃ。」



それにも関わらず、いやそれだからこそか、追いかけてくる女子はそれなりにいる。 以前耳にした言葉を借りて言えば、危険な雰囲気が良い、とでも言うのであろうか。 確かにテニス部の他のメンバー、幸村やら柳やら、いやむしろ他のレギュラーメンバー全員に追っかけはいて、 そいつらがよくテニス部の周りを見学と称して囲っているのだが、 今日はそいつらの応援とも言えない黄色い声がやたら耳についた。

柳生と入れ替わっていたとは言え、「仁王くーん!」と名前を呼ばれ続ければ それは気持ちの良いものではない。 俺を柳生だとすっかり勘違いした女子生徒たちに話しかけられもしたし。

もしも「詐欺師」としての俺を格好いいと思っている女子がいるのならば、こう言いたい。 俺は実際には女を騙して回る男でも、女遊びをする男でも、ない。 ただのテニスが好きな、幼馴染に恋する、一人の男子中学生なのだ。



「人気者は大変だねえ。」



雑誌のページをめくりながら、茶化すような口調でそう言われる。 俺だって好きで人気者になっている訳じゃない。 それに追っかけてくる大半の女子は本当じゃない俺を見ている。 噂の上に出来上がった、俺自身とは全く違う、女遊びが好きな少し危険な香りのする「仁王雅治」という人物に酔いしれているだけなのだ。



「あいつらは『俺自身』なんて全く見とらんよ。」



旧くから知っている幼馴染の前では、つい本音が口からポロリと漏れてしまう。 まぁ、それで良いのだろう。俺の知っているはそれでも受け止めてくれる人だから。

「俺自身」を受け止めてくれる、唯一と言って良い人物なのだから。



「私はさ、『雅治自身』を見てるよ。」



雑誌を読む手を止め、そう言っての手が俺の額に乗せられる。 少し冷たいそれは部活帰りの火照った体温との違いが感じられて気持ち良かった。 その気持ちよさに自然と瞼が落ちる。 少し眠気が襲ってきて、夕飯ができるまでの間、このまま膝の上で少しうたた寝をしてしまおうかと思った。 それもきっと良いのだろう。こんな無防備な少年のような姿の俺でも、は、受け止めてくれるのだから。 ありのまま、ありのままの俺を。



「私は、そのままの雅治を、愛するよ。」



眠りに落ちるほんの一瞬前、そう小さく紡ぐの声が聞こえた気がした。







※タイトルはミュージカル「モーツァルト!」より「僕こそミュージック」内の歌詞より引用

2012.3.12